見たくなる!日本のすごいインフラ Vol. 02
東京を守った技術者へのリスペクト
旧岩淵水門(赤水門)
東京都北区志茂5-42-6
宮沢 洋(みやざわ・ひろし)
画文家、BUNGA NET代表兼編集長。1967年生まれ。1990年早稲田大学政治経済学部政治学科卒業、日経BP社入社。2016年~19年、日経アーキテクチュア編集長。2020年独立、建築ネットマガジン「BUNGA NET」を運営。著書に『隈研吾建築図鑑』『日本の水族館五十三次』など
経済産業省の近代化産業遺産に認定されている。水門としての役目は終えているが、併設された橋は通行可能で、歩いて中州の緑地にわたることができる。近くに「荒川知水資料館amoa」(入館無料)があり、ここも必見。
東京に暮らす人ならば誰もが知る荒川。その名前の由来が、大氾濫を繰り返す「荒ぶる川」であったことをご存じだろうか。旧岩淵水門は、荒川の治水の要として1924年(大正13年)に完成した。国は荒川のう回路として、東京都北区から東京湾までつながる荒川放水路をつくり、分岐点に水門を設置した。
水門設計の中心になったのは日本を代表する土木技術者、青山士(あおやま・あきら)だ。東京帝国大学土木工学科を卒業後、当時建設中だったパナマ運河(1914年完成)を学ぶために単身渡米。唯一の日本人として8年間その工事に携わり、帰国後8年をかけて荒川の水門を完成させた。
昭和30年代の改修で赤い色に塗りかえられ、「赤水門」という愛称で地元の人々に呼ばれるようになった。1982年(昭和57年)、約300m下流に新岩淵水門(青水門)が完成し、その役割を終えた。
クリスチャンであった青山のモットーは、“I wish to leave this world better than I was born.”(私がこの世を去る時には、生まれてきた時よりも良くして残したい)だったという。今でも動きそうなほどきれいに残された旧水門には、現在の土木技術者たちの青山へのリスペクトが感じられる。